木
18
8月
2011
日本人は、年始の初詣やお盆やお彼岸でのお墓参り等を通して、一年に一度は合掌をする。この合掌とは何を意味するのだろうか。
仏教的には、右手が仏で左手が自分自身として、合わせることで仏への帰依を表すと言われているようだ。キリスト教やイスラム教でも形は違えど、礼拝する際には手を組み合わせる形をとっている。
ただ私は少し違った解釈をしている。
日本人は特に、「手に余る、手に負えない、手ごわい、手厳しい」等と、物事の判断を手の平で図る表現をすることから、手の平は触角の意味合いを持っているとも思える訳で、その手の平を合わせることは、感覚の自由を奪うことで精神と肉体を集中させる意味なのではないかと思っている。さらに合掌をする時とは「弔い」や「祈願」の際だが、この「祈願」とは、そもそも「目指す所により近づく為に、一心に求める」様を指している。つまり合掌とは、「神頼み」をする姿勢なのではなく、心身を集中させて自らの決意を表明する態度にあるという解釈が成り立つのではなかろうか。
では、「誰」に対して表明しているのか?
答えではないが、それは「自分自身に対して」である。「神」や「仏」と言ってしまえば簡単ではあるが、現実的には自らの決意を自分自身に埋め込み、空気感を自ら醸成していくことで、結果として周囲への波及力が高まっていくことにつながっていくからであり、それは実際に良く耳にする話である。しかし、だからと言って神社仏閣が必要ないとは思わない。日本の宗教においては、人間の魂は「仏教」により向上させ、社会での生き方は「神道」によって導かれるとされており、各々の場所は「心」を磨くための修行の場として存在している。例えは悪いが、「金」という欲望にまみれた「パチンコ店」に高貴な空気が存在しているはずもなく、その真逆の存在である神社仏閣は、自らの決意を表明する最適な場として存在しうるのである。
東日本災害の影響もあって、生き方への不安等が積もっている現代だが、逆にこの機会に日本の宗教に関して再考し、神社仏閣とは自らの魂を休ませ再生させる場所であるという認識の下、合掌から始まる生き方を考えてみるのも良いのではないだろうか。